職員のつぶやき

北越雪中実景

こんにちは。
子馬です。

市史04「片山家文書」の中の「北越雪中実景」は
展示や掲載など、出番の多い画集です(通番1642)。
明治18年(1879)、長岡の雪中の暮らしを紹介するために作られました。
絵師・片山翠谷と片桐遜堂の合作です。


上の絵は、栖吉の山の中で木を切っているところ。
下の絵は、その木を、雪の上を滑らせながら
蔵王の河原までひっぱり出しているところ。
そして左上に見える船で、信濃川を運んでいくんだって。



この大きな木、どこで、何に使ったのかな。
気になる。

小耳にはさんだ情報によれば、
新潟県立歴史博物館で12日(土)から始まった
冬季テーマ展示「大河津分水と信濃川の治水」で、
この「北越雪中実景」が展示されているらしいです。

子馬は、見に行くつもりです。
この木のゆくえ、わかるといいな。

宮田文庫

こんにちは。
子馬です。

子馬は、今
R0214「古志郡蓬平村中村家文書」(仮題)の整理をしています。

この資料群は
中村仙巌尼(せんがんに)を輩出した家のものです。
仙巌尼は、明治時代に女学校「仙巌学園」や尼僧学林を設立するなど、
生涯を女子教育に捧げました。

仙巌尼の兄、中村和多郎は
敷地内にあった6畳ほどの離れを「宮田堂」と名付けました。
そこにたくさんの本を置いて書籍台帳を作り、
「宮田文庫」として管理していました(写真)。

台帳に載っているのは269冊。時代小説や地図・絵図、
薬や占いに関する本など、いろいろそろっています。
代々伝わったと思われる、江戸時代の本もあります。
なかでも多いのは、仏教に関する本です。

「宮田」というのは、中村家の通称。
宮田堂に皆が集まって、本を選んだり、感想を話し合ったり…
仕事を終えた村人たちの、楽しい時間が見えてくる感じ。

子馬も読んでみたいな。
「櫻田血染の雪」とか。

  

体育の日

こんにちは。
子馬です。

10月の第2月曜日といえば「スポーツの日」でお休み。
今年は10日でしたね。
少し前までは「体育の日」と呼ばれていて
毎年「10月10日」に決まっていました。

なぜなら
昭和39年(1964)の東京オリンピック開催を記念して
開会式の行われた10月10日が祝日となったからです。
オリンピックの開催は、戦後の日本の復興を
世界中にアピールするよい機会となりました。

R0314「東京オリンピック(昭和39年)新聞記事スクラップ」は
採火式、聖火リレー、開会式、熱戦の様子、閉会式まで余すところなく、
レイアウトにも工夫をこらして作られたスクラップ帳です。

聖火ランナーをトーチ型に切り抜いて貼ったり、
コメントの文字も工夫してあったり等々
見るだけでも楽しい一冊に仕上がっています。

子馬は、表紙が気に入ってます(写真)。
スクラップ帳を作った青年の、日本中のみんなの、
わくわく感が伝わってくる感じ。
子馬もこの感じ、味わってみたかったな。

  
    聖火台、競技場、レスリング(?)

荷物用エレベーターの謎~その2~


こんにちは!
アールです。

旧サンライフ長岡時代、ヨガやダンスが行われていた
サブトレーニング室に、なぜ荷物用エレベーターが
あるのか?前回はここまでつぶやいて終了しました。

今回は、その謎に迫ります。

サンライフ長岡の備品整理をしていた際、偶然発見したアルバムなど
の中に、こちらの写真がありました。

    

サブトレーニング室は、昭和53年に開館した当初、
食堂だったのです。

入口のトビラには「食堂」の文字が見えます。また、すぐ横には
受付カウンターがあります。

照明や窓際の雰囲気は現在とあまり変わっていません。

サブトレーニング室の中央に、四面に鏡が貼ってある柱があります。
この柱を境として、食堂と厨房とを分ける壁がありました。

  

四面が鏡となっている柱の手前側が食堂、奥側が厨房となっており、
壁で完全に仕切られていました。厨房側にエレベーターがありました。


また、2階には和室、3階には大会議室があり、
そちらでも食事などが楽しまれていたらしいです。

このエレベーターは、お弁当やコーヒーなどを
運ぶために使われていたと思われます。

食堂がサブトレーニング室に変わり、いつしか食事運搬用
エレベーターも役割を終え、長い間休眠していました。

そして、この度、文書資料室が移転するにあたり、
歴史資料を運ぶ荷物用エレベーターとして見事復活を遂げた!
ということになります。

今後も、文書資料室の移転先となる旧サンライフ長岡の建物
について、なにか紹介できればと思います。


起請文

こんにちは。
子馬です。

先日、日曜の夜8時からのドラマを見ていたら
「起請文(きしょうもん)」というのが出てきました。
嘘や偽りのないことを神仏に誓います、と記した文書です。

市史04「片山家文書」の中にも起請文があります(通番69、写真左)
長岡藩の足軽にして絵師・片山翠谷(初代為右衛門)は、
結婚に際し「何があっても決して離縁はしない」と
妻のおなかに誓い、血判を押しました(写真右)。

ドラマでは、政権をめぐっていろいろあって
妻(比奈)は夫(義時)に起請文を返し、
みずから離縁を願い出て鎌倉を去りました。

為右衛門は
「(自分が先に死んでしまっても)此家にて跡美しく頼ミ入候」と、
後のことをおなかに託しています。

どうやら起請文というのは
渡す方ももらう方も覚悟が必要みたいですね。
子馬は、
「大変だな」と思いました。