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享和元(1801) | 第9代藩主牧野忠精が老中に就任 |
享和3(1803) | 長岡町人が町続きの草生津村と山田町などの商業活動の統制を願い出る |
文化元(1804) | 木喰上人、白鳥村の宝生寺と上前島で、観音像と自刻像を完成させる 藩が北・西・上組に村々の商業停止と農業への復帰を命じる |
文化4(1807) | このころ大田正儀が数学書「算額象形類五十問」を本多利明とともに発刊 |
文化5(1808) | 藩校崇徳館創立される |
文化6(1809) | 千手町村の大和屋が藩の贈答用菓子の御用達を命ぜられる |
文化7(1810) | 幕府が高田・長岡・新発田の3藩に、1年交代の佐渡警備命じる |
文化11(1814) | この年、十返舎一九長岡に来遊する |
文化12(1815) | 藩校崇徳館の都講に、古学派(徂徠学)の秋山景山が任命される 蓬平・濁沢・福道・南新保村が幕領から白河藩預りとなる(文政6年、桑名藩預りとなる) 灰下村が与板藩領から幕領に替わる |
文化13(1816) | 10月 牧野忠精老中を辞任 |
文政元(1818) | 大積・宮本・下除・王番田が長岡領から出羽国上山領となる 灰下村が幕領から上山領になる |
文政3(1820) | 三潟の悪水抜き工事完成する |
文政10(1827) | 幕府が長岡藩に三潟と17新田の上知を命じる |
文政11(1828)
| 信濃川の下流域一帯に大地震が発生(三条地震) |
天保元(1830) | 江戸幕府の上屋敷に、江戸幕府の子弟教育の就正館設けられる 栃尾組の農民約1300人が家中の炭買い上げ値段の引き上げを求め、永田村まで押し出す(炭一揆) 藩が天保の改革を開始家中の棒禄・領内の豪農商への扶持米借り上げ、国元と江戸の倹約、御用金の賦課など五か年計画を立てる 長岡城修理費と藩主忠精の老中再任のため、領内に2万5000両の御用金・調達金を命じる |
天保2(1831) | 牧野忠精が老中を辞任、同月牧野忠雅家督を相続し、第10代長岡藩主に就任 町口門に訴状箱を設け、藩財政再建の意見を求める 五か組の割元、郷中の困窮救済のため、要望書を提出する 藩が借財の元利返済を一時凍結する |
天保3(1832) | 在方の新規茶屋営業と酒商いが禁止される 藩医新川順庵・小山良岱が藩命により腑分け(解剖)を行う |
天保4(1833) | 洪水と冷害で大凶作 |
天保5(1834) | 藩が窮民に救米を支給 町会所で救い粥の炊出し |
天保6(1835) | 貞心尼が「蓮の露」を完成させる |
天保7(1836) | 朱子学派の高野松陰、秋山景山に代わり崇徳館都講となる 長雨で大凶作、長岡城下に困窮者が入り込み、冬には行き倒れや死者も出る 新潟町の若狭屋・北国屋等の抜荷事件(天保6年)が発覚する |
天保8(1837) | 城下への流民1000人に上る 中島と大工町に小屋を建てて流民を収容、町民の負担で粥を支給する 西新町長福寺に「餓死万霊塔」建立される |
天保11(1840) | 幕府が長岡藩の川越転封など三方領知替えを命じる 新潟町回船問屋らの抜荷事件摘発される |
天保12(1841) | 長岡船道と蔵王側の、天保9年以来の紛争に幕府評定所で判決下り、和解決着する 幕府が三方領知替えを中止する この年までの新田開発地を新田という |
天保13(1842) | 藩が千手町村・四郎丸村と街道筋の村に、5年間の期限つきで取り扱い商品数を大幅に許可する |
天保14(1843) | 天保11年の抜荷事件関係者に対する幕府の処罰行われる 幕府が長岡藩に新潟町の上知を命じる 10代藩主牧野忠雅が老中に就任 |
弘化元(1844) | 幕府の指示により、藩が新潟の五十嵐浜、越前浜などの警備人数を増加する 藩が城外で軍事訓練を始める 長岡町大火で城下町のほとんどを焼失(俊治火事) |
弘化2(1845) | 藩主忠雅が幕府老中兼海防掛に任じられる 藩が千手・宮原・新町・新保村に商業を許し、町方に役銀を年20両納入するように命じる 木曽恵禅が長永寺に囂外黌を開き、宗学と漢学を授ける |
弘化3(1846) | 村松村割元格六右衛門が藩命を受けて村内に約3万本余の杉木を植える |
弘化4(1847) | 宮路村が鎮守の御手洗い地を用水溜とする工事を行う |
嘉永2(1849) | 藩が借財23万両の解消のため、町・郷中に前例のない8万両の御用金を命じる 東・西大新江の開削が始まる |
嘉永3(1850) | 藩が諸組新田取調掛を設けて、新田開発を奨励 藩が結城機(高機)を許可し、運上を徴収する 小林虎三郎が佐久間象山の門に入り、蘭学と砲術を学ぶ |
嘉永5(1852) | 藩が4万両を水原町と各地の豪商・豪農21人から借用する 大坂の緒方洪庵の適々斎塾に、藩医小山良運が入塾 |
嘉永6(1853) | 栃尾郷の打こわし起こる 藩が済世館を設立し、医学教育を行う |
安政元(1854) | 小林虎三郎が下田開港に反対し、神奈川開港を老中牧野忠雅に進言し、帰藩・謹慎を命じられる |
安政2(1855) | 領内第一の富豪蒲原郡吉田村の今井孫兵衛を藩の勝手本方、勘定所御金取扱に任じる 藩が勘定所の機構を改革 |
安政3(1856) | 飯島文常が絵巻物「雪之図」2巻を描く |
安政4(1857) | 渡里町裏の内川左岸から大川に至る新川の開削を終わる 牧野忠恭が家督を相続、第11代長岡藩主となる |
安政5(1858) | 小林虎三郎が「興学私議」を著わす(翌年まで) |
文久2(1862) | 藩領の内、蒲原郡3000石が上知となり、刈羽郡3316石を代知として与えられる 刈羽郡の内19課村が長岡領とされ、これを苅羽組とする |
文久3(1863) | 藩が佐渡警備のため藩兵230人を新潟に駐屯させる 牧野忠恭が老中に就任 藩が織機扱所を設置し、領内の結城機(高機)の統制をはかる 藩主忠恭が外国事務取扱となる |
元治元(1864) | 表一ノ町の紅屋が藩の菓子御用達となる |
慶応元(1865) | 河井継之助が外様吟味役から郡奉行に任じられる |
慶応2(1866) | 藩主忠恭が第二次長州征討に出兵を命じられ、大坂に向け藩兵を率いて江戸を出発 長岡蝋座跡地に寄場を設ける |
慶応3(1867) | 牧野忠訓が家督を相続し、第12代藩主となる 河井継之助が家老職に任命される 崇徳館の寄宿舎造士寮が設立される 河井継之助が藩主の名代として上京、京都御所へ建言書を提出 藩が長岡船道を廃止する この年までの新田を新々田という |
慶応4(1868) | 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争始まる)が起きる 崇徳館の教授たちが、新政府軍への恭順の意見書を藩に提出する 藩士を総登城させ、禄高改正と兵制改革を発表 新政府軍が越後11藩の重臣を高田に集め、王政復古の大号令を伝え、長岡藩正使植田十兵衛に出兵を命じる 河井継之助軍事総督となる 藩兵出兵し、摂田屋村光福寺に本陣をおく 河井が小千谷の慈願寺で新政府軍の岩村軍艦らと会見、会談決裂同盟軍が新政府軍を激退、榎峠を占領する 長州藩兵と薩摩藩兵が城下に侵入し、長岡城が落城する 城下の家中屋敷・足軽屋敷・町家等合計2511軒が焼ける 柏崎民政局が設置される 稲垣平助ら新政府軍参謀に主家再興の願書を提出 長岡民政局が開かれる長岡藩兵が八町沖を渡河して長岡城を取り返す 新政府軍の総攻撃で長岡城が再度落城し、藩兵とその家族八十里超から会津へ落ちる |