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中世

●長岡市略年表(中世)

年代
記事
永仁元(1293)時衆の他阿真教が蔵王堂で多くの人々を教化する
石内の極楽寺が開かれた、と伝える
嘉元4(1306)後宇多上皇が白鳥荘を昭慶門院に譲る
建武元(1334)このころ、円融寺に阿弥陀如来像を納めたと伝える
建武4(1337)足利尊氏が紙屋荘を九州の大友氏に与える
正平7・文和元(1352)蔵王堂で、尊氏方の石坂氏らが南朝方の風間越後守と戦う
文和4(1355)中条氏が蔵王堂に本陣を構え、宗良親王・脇屋義治らが守護宇都宮氏綱とともに志度野岐荘の於木野島・大島荘平方原で戦う
正平20(1365)南朝方の芹川城主大島讃岐守頼興が滅びた、と伝える
永和4~応永13
(1378~1406)
大積四か村の年貢が、守護上杉房方から京都北野神社に寄附される
応永24(1417)釜沢の満願寺に、金銅製鰐口が寄附される
応永34(1427)長尾長泉が古志郡の領地を、孫の四郎左衛門入道に譲る
永享3(1431)紙屋荘が幕府から陸奥篠河の足利満貞に与えられる
文明2(1470)古志長尾家で孝景が家督を継ぐ
文明10(1478)白鳥荘の年貢を確保するため、京都随心院の門跡が越後に来る
文明15(1483)この年から3年間、長尾孝景は古志郡内の領主と領地を調べる
延徳3(1491)古志長尾孝景は、古志郡内の領地の年貢を為替で和泉堺へ送るように頼まれる
明応4(1495)古志長尾家の孝景が隠居し、房景が家督を継ぐ
明応6(1497)白鳥荘では、年貢納入をめぐって京都の領主随心院ともめる
古志長尾家は、守護に納める役銭を調査し帳簿をつくる
白鳥荘から年貢が為替で京都へ送られる
永正4(1507)永正の乱が始まり、村松の円融寺が焼失する
永正7(1510)このころ、関東管領の上杉顕定が越後へ攻め込み、長尾為景方とはげしく戦う
長尾房景は為景に味方し、蔵王堂で上杉顕定らと戦う
大積保が、長尾為景から上杉家の代官神余昌綱に与えられる
永正10(1513)長尾房景は上田荘を攻める
永正11(1514)房景たち為景軍は、上田荘六日町で守護方を討ち取る
永正16(1519)長尾房景は、長尾為景とともに越中に出陣する
大永7(1527)長尾房景は高波保などの段銭を徴収する
天文12(1543)為景の子景虎(謙信)が栃尾城に入り、古志長尾家を継ぐ
天文17(1548)長尾晴景が景虎(謙信)に家督を譲る
天文19(1550)このころ、長尾景虎と上杉長尾氏が対立し、上田勢が志度野岐荘の石坂口から攻め込む
弘治3(1557)関東管領の上杉憲政が小田原の北条氏に追われ、越後にのがれる
永禄2(1559)長尾景虎が上洛し、近江で河田長親を家臣とする
永禄4(1561)上杉謙信は、小田原に北条氏を攻め、鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣して、関東管領就任を内外に示す
永禄8(1565)河田長親は再び上野国に出陣する
永禄10(1567)河田長親は犬茂島で起きた争いに裁定を下す
永禄11(1568)河田長親は栖吉衆を率いて最前線の越中国に出兵し、松倉城に在城する
元亀2(1571)河田長親が小越与拾郎に片貝の地を与える
元亀3(1572)河田長親が越中国で一向一揆と戦う
河田長親は越中金山城の椎名康種を敗り、謙信から越中太田下郷を与えられる
上杉謙信は富山城に河田長親の父元親を置き、長親を補佐させる
元亀4(1573)上杉謙信が越中に出陣し、古志の上杉景信に春日山城の留守を命じる
天正6(1578)謙信が急死して、養子の景勝と景虎が対立し、御館の乱が起きる 芹川で景勝方と景虎方兵が激しく戦う
栖吉衆の小越宮内丞は、河田長親から古志郡に領地を与えられる
天正8(1580)上杉景勝が蔵王堂城・栖吉城を攻撃する
河田長親が越中松倉城で病死する
天正10(1582)河田家の家督を継いだ岩鶴丸が、家臣の山田修理亮らに古志郡内の領地を与える
上杉景信の領地が没収され、芋川正元に与えられる
天正12(1584)上杉景勝が、栖吉衆の若林助左衛門尉と山田修理亮に与えた領地を郡司不入とする
天正14(1586)河田岩鶴丸が没し、河田家は断絶する
栖吉には代わって景勝の家臣が入る
天正20(1592)芹川村で検地が行われる
文禄5(1596)丸田俊次が蔵王堂の東西町の代官に任命される
このころ、蔵王堂町は信濃川の船運の利権をめぐって、魚沼の江口・堀之内と争う
慶長2(1597)上杉景勝が検地を行い、古志郡では武士の領地が再編成される。また、蔵王堂・栖吉の普済寺などの寺社の領地も調べられる
慶長3(1598)上杉氏は会津への国替えを命じられる
河田親詮(のうち正親)らも会津へ移り、田村郡の郡代を務める 豊臣秀吉が堀秀治を越前北庄から春日山に移す
堀秀治の弟堀親良が古志郡蔵王堂城に入り、4万石を領知する
慶長5(1600)関ヶ原の戦いが起こる
慶長7(1602)堀親良が隠居し、兄秀治の二男鶴千代を養子に迎える
魚沼郡坂戸城から堀直竒が蔵王堂城に入り後見する
慶長8(1603)徳川家康が征夷大将軍戸なり、江戸幕府を開く
慶長10(1605)堀直竒が蔵王堂渡りを長岡町に移し、このころから長岡に新城の築像を始める
慶長15(1610)堀直竒が信州飯山に転封される
松平忠輝が越後を支配する
元和年間(1615~1623)長岡船道の船数が108艘に定められる
元和2(1616)松平忠輝が所領を没収される
堀直竒、蔵王堂城8万石を領知する
堀直竒、長岡本町通り東側の屋敷裏空き地を一ノ町から五ノ町の者に与える
堀直竒が郷村法度「置目」13か条の申し渡しを行う
このころ川港が蔵王堂城下長岡に移される
元和3(1617)長岡町寺屋敷の屋敷割りを行う